1682年、琉球王府は沖縄各地にあったやちむん(焼き物)窯を首里城下(現在の那覇市牧志)に集め、壷屋窯が誕生しました。
この壺屋窯よりも古い窯が、読谷村喜名から発掘調査によって発見されました。ここで焼かれた焼き物は喜名焼と呼ばれ1670年頃に盛んに焼かれていましたが、その後、喜名焼の歴史は途絶えてしまいました。
1972年、壷屋にて焼き物をされていた金城次郎氏(故人)が読谷に工房を移しました。1980年には中堅の陶工4名が共同登窯を築き、初の窯出しとなりました。
この窯でできた焼き物を読谷山焼と称し、この共同登窯を中心としてやちむんの里が形成されました。この里をベースとして読谷村内に多くの陶工たちが集まり、現在では村内各地に50余の窯元があります。
金城次郎氏は、1985年に沖縄初の人間国宝(重要無形文化財保持者)と認定されています。このように、読谷村は沖縄陶芸の歴史変遷の一端を担う場所となっています。
15世紀頃に南方から伝わったと言われる読谷山花織は、中国南部から東南アジアをルーツとする織物と考えられています。琉球王朝時代には御用布として重用されていたとも言われています。しかし明治以降、機織り業も近代化の波にもまれ、その工芸技術は途絶えてしまいました。
戦後しばらくした1960年代になると、読谷山花織が見直されるようになりました。大切に保存されていた読谷山花織をもとにした、多くの女性達の何度もの試行錯誤の努力の末に、機織り技術の復元がなされました。この読谷山花織の復元のリーダーが、後に人間国宝となられる与那嶺貞氏(故人)です。現在では読谷山花織事業協同組合が結成され、100名以上の織子が誕生しています。村内各地の工房からは、日々機織りの音が聞こえ、織物の伝統の技が今も息づいています。
読谷村では、集落ごとに特色ある伝統文化が育まれています。
かつては農閑期のムラアシビとして、組踊や舞踊そして棒術や獅子舞が盛んに演じられました。また、旧暦7月になると各字青年会を中心に、エイサーを大切に繋いできています。この伝統芸能を引き継ぐ作業は、村民のアイデンティティーの確立に一役を担っており、コミュニティー形成の場にもなっています。
読谷村に豊かな伝統芸能が息づく背景には、琉球古典音楽の鼻祖と崇められる赤犬子生誕の地であることが深く関係しており、芸能文化を育む環境が息づいていると言えます。
毎年11月に村民のための村民によるお祭り「読谷まつり」が開催され、多くの村民が集い、各地の伝統文化でおおいに盛り上がります。また、1月に開かれる読谷村文化祭では、村内に活動する文化団体が一堂に会し、鳳ホールでは、琉球古典音楽や琉球舞踊などの舞台芸能が発表され、ふれあい交流館では、工芸や書道、絵画や彫刻などの美術工芸作品が展示されます。
読谷村の歴史文化を蓄え、文化を創造する器として、歴史民俗資料館・美術館があります。この館には読谷村の変遷資料が保存されるとともに、これからの文化振興につながる美術工芸品が収蔵されています。伝統文化で足元を確かめ、文化創造活動を行い、足元の泉を探し当てることを夢みている村が読谷村です。
座喜味城は、このような中山の統一国家へ向けた争いの多い最中の1420年頃に読谷山按司・護佐丸によって築かれました。護佐丸は当初、座喜味の北東約4キロにある山田グスク(現恩納村)に居城していましたが、北山城(今帰仁城)攻略に参戦した頃に、敵からの防御や長浜港を控えた地の利を考えて高台にある 座喜味に築城したとされています。
座喜味城の城壁を上空から観ると、いくつもの曲線が組み合わされるようにできています。この曲線構造は、現在の黒部ダムのようなアーチ式ダムの構造に似て おり、当時の築城技術の高さをしのぶことができます。門は中央にくさび石をはめて2つの石をかみあわせることで造られているアーチ石門が特徴で、くさび石 を用いる方法は、他のグスクには見られません。また、石材は地元で採れる琉球石炭岩が使われ、その積み方は、「野面積み」や「布積み」が進化したとされる 「あいかた積み」手法を用いられているところが多くなっています。これらは、護佐丸が優れた築城技術を持っていたことを表しています。
座喜味城跡は、1945年の沖縄戦中は日本軍の高射砲陣地として利用されました。その後は米軍のレーダー基地が設置されましたが、1956年に琉球政府の 重要文化財に指定され、日本復帰の1972年には国指定史跡となり、1973年から1985年の間に城跡の発掘調査や城壁修理が進められて再生していま す。そして、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の資産のひとつとして世界遺産に登録されました。
「うたとさんしんぬ むかしはじまりや いんこねあがりぬ、かみぬみさく」の琉歌が伝わるように、読谷の楚辺にはアカヌクー(赤犬子)終焉の地となる赤犬 子宮があります。アカヌクーは楚辺出身と伝えられ、五穀豊穣の神として祀られる一方、琉球古典音楽の鼻祖として崇められています。アカヌクー(赤犬子) は、今から約500年前の第二尚氏王統の尚真王代のおもろ歌唱者と言われています。彼に関する歌が沖縄最古の歌謡集おもろそうしにあり、沖縄各地を吟遊し ていたようです。
かつて沖縄が琉球国と呼ばれていた十四世紀後半、時の中国「明」の皇帝・洪武帝(こうぶてい)は、政権を取るや否や対外政策として冊封・進貢策を取りました。当時、中国は魅力的な商品を参する大国であり、日本はもちろんのことアジアの多くの国がそれを受入中国との交易を進めていました。
この政策は琉球の中山・察度王の元にも届き、その締結が求められ、1372年、察度王はただちに了解し、その弟の「泰期」を団長とする琉球初の使節団を中国に送りました。これにより琉球も中国との公益の資格を取り東南アジアに及ぶ大交易黄金時代を築きあげることとなりました。
その察度王の弟とされれる「泰期」は、読谷山・宇座(ゆんたんざ・うざ)出身ということが琉球最古の歌謡集「おもろさうし」の中に表現されており泰期は5回にわたって中国(明)貿易を行って歴史的使節を果たした本村の誇るべき偉人なのです。
それ故に読谷の商業活動は沖縄で一番 古く読谷の商業史は沖縄で一番い600年以上の歴史を有すると言えます。中国との交易は「唐旅」と言われ、果てしなく遠方への旅であり、生命の保証の無い危険な旅路で、沖縄では「唐旅」のことを「あの世への旅」を意味するほどでした。その旅路を5往復した「泰期」は並みの人間ではないと言えます。
この初の進貢使となった我等が先人「泰期」の勇気、使命感、優れた統率力、立派なビジネス感覚そして豊かな国際感覚は、校生の我々の大きな誇りとし学び、たゆまぬ継承に励むべきことであり、「商売の神様」として象徴し、商売繁盛を祈念しています。